教育実践研究における意図せざる結果と自身の省察

昨日,教職大学院院生の最終報告書の議論を行った。対象の院生は,現職の小学校教員。昨年1年間大学院に通学し,今年は自身の学校に戻り,実践を通して報告書を執筆しようとしている。
先日も書いたとおり,教育実践にもねらいがあり,そのねらいにしたがって評価をする。当たり前だ。ところが,話していると,自身が当初想定していたのとは,子どもが異なる形で学んでいること,そして教師としてはその状態を肯定的に評価できる,ということであった。
このケースは,当初ねらいとして想定していないから,本来であれば結果として記述するべきことではないかもしれない。ただ私は,当初のねらいに対する結果を述べ考察していることは踏まえたうえで,「意図せざる結果」としてこのようなことも書いてはどうかと勧めた。ねらい―評価というのは,実践のごくごく一部の狭いところを取り扱っているに過ぎない(特に研究論文として公表しようとしているものであれば,なおさらである)。本当に,教育実践として他の人が役立てることができるのであれば,それに伴う情報も提供したほうがよいと思う。また,実践を踏まえての自身の省察(子どもや教育観の変容について)もあったほうがよいと思う。これは主観的なものとなるが,それを実践者がどのようにとらえたか,留意点は何か,というのも論文の読み手からすればほしい情報である。
議論をとおして上のようなことを考えたが,例えば教育工学会など,私がそのようなことが記された論文の査読を依頼されることになれば,査読者としては評価しないと思う。それはやはり基準に合わないからだ。大学で他の人に読まれたとしても,やはり指摘を受けるだろう。
教育実践研究の論文(自身が実践者や共同設計者として行う教育実践を取り扱った論文とここでは定める)が難しいとはよく言われるが,まとめる段階での難しさとして,このような点もあるのではないかと思った。